美しかった
夕方から、サレジオ教会の櫻を見て、おいしいお蕎麦を食べて、日本酒を飲んで 碑文谷公園の池のほとりで櫻を見る 人も少なく、絶景でした 今年の櫻にはもう二度と会えない いい櫻でした 〜〜〜 病気や、苦しみのときに どうして自分が、と あるいはどうしてあの人が と思わない人はいないと思います 痛みや苦しみが、この全能の神様が作られた筈の世界に存在することは実に神秘的だ なんの為に苦しみや悲しみ、病気や死があるのか きっと意味があるのだと思う 苦しみも痛みも、悲しみも、病気も死もなければ 人は愛し合わないのではないでしょうか 愛し合うことで、苦難を乗り越えて、有限な時間は永遠なものとなります 愛の時は永遠の時、というとき、それは正しい ならば、愛のために死があり、 そのために苦しみや痛み、すべての不条理を受け入れることができるからです 苦しみや、痛み、病気について述べている新約聖書の箇所を探してみました 〜〜〜〜 ローマの信徒への手紙 / 5章 3~5節 〜わたしたちは〜 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。 コリントの信徒への手紙二 / 12章 7~10節 わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 ※とげ、とはパウロが長年苦しんだ病気のことと考えられている ヘブライ人への手紙 / 12章 4~13節 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。 ペトロの手紙一 / 4章 12~13節 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。 19節 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
by francesco-leica
| 2008-03-30 14:52
| 日記
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